京都の行政書士が作成した京都の南に眠る人々の一覧

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宇治市

源 頼政(1104〜1180)
摂津に本拠を置き、早くから朝廷に仕えた源氏の棟梁。保元の乱では後白河天皇方に属し、源義朝や平清盛らと共に戦う。平治の乱では、はじめ義朝方に属していたが、平清盛の反撃の際には源氏としては唯一平氏方につき、義朝の六波羅攻撃を防いだ。出家後、源氏再興を願って、以仁王に平氏追討の令旨を出させ挙兵するが、宇治川の戦いで平知盛軍に敗走し、自害した。墓所は平等院にある。

長岡京市

法然(1133〜1212)
浄土宗の開祖。本名は源空。美作国(今の岡山県)の押領使の子として生まれる。9歳のとき、夜討によって父を失い、15歳の時に比叡山に入り得度。法然房源空と名のる。1175年、43歳の時、専修念仏に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み、専修念仏の教えを広めた。1186年に大原問答(大原勝林院で聖浄二門を論ずる)、1198年「選択集」を著した。1204年、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので「七箇条制誡」を草して門弟の署名を添え延暦寺に送るが、興福寺により念仏停止の断が下されて、1207年土佐に流罪となる。1211年赦免になり帰京し、翌年没した。墓所は光明寺にある。

京田辺市

一休宗純(1394〜1481)
臨済宗大徳寺派の禅僧。京都生まれ、後小松天皇の落胤とされている。一休は号、宗純が本名。幼時から京都の安国寺で修行し、後に何人もの僧について学んだ。1420年に京都の大徳寺より一休の名を受け、以後は詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。1474年に勅命により大徳寺の住持に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力し、88歳、一休寺(酬恩庵)で没した。天皇をはじめ、民衆からも慕われた。著書(詩集)は「狂雲集」「骸骨」など。自由奔放で、奇行が多かったらしく、その人間臭さに満ちた生き方はのちに彼をモデルとするとんち話を生み出すこととなった。墓所は一休寺にある。

井手町

小野 小町(?〜?:9世紀ごろ)
平安時代前期の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙の1人。今の秋田県または福島県出身で、京都市内・井手町などで没したなど経歴は定かではない。仁明天皇の更衣だったらしい。絶世の美女と呼ばれており数々の逸話があり、能や浄瑠璃などの題材としても使われた。井手町に小町塚がある。下記の歌が百人一首に収められている。

花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に

山城町

以仁王(1151〜1180)
後白河天皇の第2皇子。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮・高倉宮とも称された。幼少のころから才能に優れ、学問・詩歌に秀でていた。平氏から人心が離れつつあることを察知し、1180年源頼政のすすめによって、平氏追討の令旨を全国の源氏に発し、挙兵をうながした。しかしただちに平氏側に露顕したため、平氏の軍に追撃され、宇治川の戦いで敗走し、光明山で討ち取られた。平氏討伐の計画は失敗に終わったが、令旨を受け取った源頼朝・義仲ら各地の源氏が挙兵し、平氏滅亡のきっかけを生み出した。墓所は高倉神社にある。

木津町

和泉式部(978?〜1034?)
三十六歌仙の1人。本名不明。夫の橘道貞の任国である和泉、父の越前守大江雅致の官名「式部」から「和泉式部」と呼ばれた。橘道貞と結婚したが、やがて道貞のもとを離れ、為尊親王と関係を結ぶが、親王は1002年6月、26歳で夭折。翌年、敦道親王との恋に落ちた。この頃から式部が親王邸に入るまでの経緯を「和泉式部日記」として綴った。敦道親王も1007年に27歳の若さで亡くなり、その後中宮彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺にはこの頃紫式部・伊勢大輔・赤染衛門などがいた。その後、宮仕えが機縁となって、藤原保昌と再婚し、1013年頃、丹後守となった夫とともに任国に下った。「和泉式部集」「和泉式部続集」など家集を残し、勅撰二十一代集に約240首を入集、名実共に王朝時代随一の女流歌人であった。木津町内に墓所がある。下記の歌が百人一首に収められている。

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
平 重衡(1156〜1185)
平安時代末期の武将。父は平清盛。1180年、宇治川の合戦で源頼政を破り、12月、父清盛の命令で東大寺・興福寺を攻めてこれを焼き討ちにした。1184年 一ノ谷の戦いで捕えられて鎌倉に送られたが、奈良僧徒の請願で奈良に送られ、木津川の川辺で斬首された。供養のため、安福寺が建立され、墓所が十三重石塔とともにある。

精華町

お千代・半兵衛(?〜1721)
近松門左衛門の「心中宵庚申」のモデルとなった夫婦。大阪の八百屋の養子半兵衛は、上田村(現在の精華町植田)の庄屋の娘で妻のお千代と仲睦まじく暮らしていたが、姑とお千代の折り合いが悪く、2人は1721年4月の夜、帝釈天の縁日でにぎわう大阪生国魂神社で心中した。墓所が来迎寺にある。

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